希望は夕食としてはまずいが、朝食としては優れている
Hope is a good breakfast, but it is a bud supper.
(16~17世紀イギリスの哲学者・神学者・政治学者、1561~1626)
和訳はコリン・パウエル「リーダーの条件」で知ったもの。
「朝食としてはグッドだが、夕食としてはバッド」じゃないの?
と思ったけど、これはたぶんコリン・パウエルの13か条の一つに
「朝になれば状況は良くなっている」
があるからではないかと推測した。
そもそもこの言葉の意味は、名言ナビさんによると
希望は新しい一日が始まる朝に最も効果があり、時間が経つにつれてその効果は下がっていく。
https://meigennavi.net/word/02/025427.htm
ということらしいが、個人的には「夜の希望的観測は危険」という解釈をした。
夢見がちな妄想少年だった私は幼いころから思春期をとうにすぎていい大人になってからも様々に妄想を楽しんでいたが、妄想がリアリティをもって迫ってくるのは決まって夜だった。
夜の帳は余計な雑音をシャットアウトして内的思考に没入させてくれるが、同時に都合の悪い真実をも塗りつぶして悦楽的な希望的観測に誘うのだ。
分かりやすい例でいえば、やらなければならないことが溜まっているときに「こんなに疲れていては出来るもの出来ない。今日はもう寝てしまって明日早起きして片付けよう。なーに、しっかりと休んでフレッシュな頭脳で挑めばすぐに終わるさ」といって寝てしまって朝後悔するアレである。お前の頭はフレッシュでもフーリッシュだろ!という事実を糊塗して誤った行動をしてしまうのである。
仮にこの推測が正しいとするなら、どう考えても「朝になれば状況は悪くなっていた」わけで、(それが真意ではないにしても)「朝になれば状況は良くなっている」と反する印象を与えてしまう。
また、パウエル氏が唱えるポジティブ思考とも合わない。
そこで順番を入れ替えて「優れている」で締めたのはないかと思うのだ。日本語は大事なことは最後に言う言語だからね。
この言葉の真意はもちろんベーコンさんしか分からない。
伝えたかったのは、朝に希望を持つことの大事さなのか、夜に希望に傾倒する危うさなのか。
希望的観測からすると、両方かな。