僕のなかの壊れていない部分
白石一文
光文社
週末に久方ぶりに会った友人は本好きな人間だった。
読者家というよりは本好きといった方がしっくりくるタイプで、フルタイムの人材派遣業に従事しながら、今でも年間150冊は読むという。それも同じ本を3回くらいは当たり前、気に入ったものにいたっては、「さぁ・・・?50回くらいは読んだんじゃない?」という ”本の虫” だ。 学生時代は本屋でバイトしていたのだが、さぞかし幸せだったことだろう。
今は?何を読んでいるの?と焼き鳥をくわえながら訊くと、2冊平行して読んでいるといいカバンから文庫を取り出した。京極夏彦の分厚いのと、掲題作「僕の中の壊れていない部分」だった。
翌日、久しぶりの再会を記念して1冊読もうと本屋に出向き、夏彦さんは厚苦しいので「僕のなかの壊れていない部分」を購入した。
タイトルからしてどっぷり内向的な作品であろう。息苦しいほどの心理描写が楽しめるに違いない。
友人が言うには、この白石一文という作家は一般での知名度に比して書店での扱いが大きいのがとか。いわく、「やっぱり『本屋に好かれる本』っていうのはあって、たとえ無名の作家のデビュー作でもあちこちの本屋で平積みされている、ってのはよくあることなんだよね。本屋ってのは当然たくさんの本を読むわけで、そういう人たちはやっぱり批評眼が似てくるのか選ぶ本も同じなんだよね。面白いよね。」ってことで、この白石一文ってひとは『本屋に好かれる作家』であったためそ大きく扱われているそうな。
『本屋に好かれる本』といえば、『天国の本屋』が思い出される。
なんでもどっかの本屋さんが「とにかくいい本だから読んでみて!」と知人に熱烈に薦めてたのを皮切りに口コミでベストセラーになったとかで、その作品性だけでなく既存出版社の告知・広告のあり方についての論議を呼んだことも話題になっていた。俺もいそいそを本屋に向かい、しげしげと読んでみたわけだが、ぬるい童話といった印象しか受けなかった。ヒロインのユイの瞳だけは見てみたいと思える描写だったが、それは単に俺が外人好きだからかもしれない。
・・・・話が危ういほうに逸れてしまったが、言いたかったことは、本屋の評判≠俺の好みである場合もあるということで、「僕のなかの~」に対しても期待しないほうがいいかも、という懐疑的な気持ちが沸いてしまい、その気持ちを胸に置いたまま読んだということを前提として書いておきたい、ということです。
で、レビュー。というほどちゃんと書かないな。感想。
幼少期の体験により抜群の記憶力と人間に対する不信を抱えて生きる主人公、直人。
経済的・教育的に恵まれた環境で育ってきて。誰もが振り向く美貌を持つ「マトモな」女、枝里子。
この二人のお互いに対する理解・感情を軸に、変態人妻や家出少女、厭世的美少年が揺れ動きながら生きていく様子を描いたドラマ。
主人公の人間不信には幼少期の原体験という理由が与えられているが、確保した社会的地位や獲得した信頼からすると人間像としてのバランスがいかにも悪い。内部に破綻を抱えて生きる人間を描いたというよりは、作者がトラウマを逃げ口上に心理の深淵に迫ることをさぼったのではないかという印象を受けた。
これが決定的な違和感を生み、こんな主人公を慕ってくる人々は阿呆ではないかということになり、愛に包まれた人間の筈のヒロインが浅薄な幸せのカタチを求める思考停止の阿呆女に見え、家出少女は絵本の読みすぎで茫然自失の甘ちゃんに見え、美少年は自意識過剰で努力と能力の足りない革命家志望に見えるであった。
ヒロインを除く全員が、自分の闇の原因を外に求めるヘタレどもで、その毒波にまみれた頭で遠近感の狂った思考を続けるのだ。もっとも、俺にヒロインが理解できないのはオンナゴコロが分かっていないからかもしれないが・・・。
ま、要するにイラつく小説であった訳で、なんでこんなレビューをわざわざ書いたかというと、色々な人に読んでもらいたかったからである。
この小説が出版され、平積みされたいたという現実は、自分には理解できない心の琴線というものが確かに存在するということの証左でもあり、理解できないものは理解したいのが心情であり、求ム解説。という訳だ。
長々読んでくれてありがとうm(__)m
本読んで面白かった人がいれば是非コメントください。
2006/11/08
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