(Wikipediaより)
要するに、赤いリンゴを見たときに感じるその赤さのことです。
先の、皆が同じ赤を見ているか?という問題は、正にここ、その人が受ける感覚や質感(=クオリア)の問題です。この問題は難問なのは、クオリアが他人には確認出来ないものであるからです。
例えば色は光が物質に当たったときに、その物質が反射する光の波長の長短により決まるのですが、同じ波長を受けた人間が同じ電気信号を脳に送ったとしても、その人たちは思い浮かべる色(=クオリア)は同じものなのか?ということは第3者には決して確認出来ないということです。
これは色だけでなく、音や形や触感についても同じことが言えます。
僕が鏡で見ている自分の顔は、ただ自分の脳ではそういう像を結んでいるというだけであり、他人から見たら「僕」は「僕の見るベッカム」そっくりなのかもしれないのです。ただその場合、他人が見る「僕が見たベッカムそっくりの僕」はイケメンではなく、keigochkasan程度のカッコよさしかないので(僕的には)無意味です。
ここで一つの面白い妄想が出来ます。
それは、世の中に「絶対な基準」があるのではないか?ということです。
つまりこういうことです。
例えばここにベッカムとkeigochkasanがいたとします。
そしてベッカムを僕が見たとき、僕はベッカムを「絶対世界一カッコいい!」と感じたとします。
つまりベッカムを見ることによって「絶対世界一カッコいい男」のクオリアが生成されたということです。
そしてkeigochkasanを、「絶対に世界で2番目にカッコいい!」と感じたとします。
同様につまりkeigochkasanを見ることによって「絶対に世界で2番目にカッコいい男」のクオリアが生成されたということです。
そこで僕に「世界イケメンランキング」を作らせると、当然
1位 ベッカム
2位 keigochkasan
ということになります。
一方違う人、例えばジェニファー・コネリーからこの2人を見た場合、ジェニファー・コネリーがベッカムを見たときに生成されるクオリアは、僕が生成した「絶対に世界で2番目にカッコいい男」のクオリアであり、keigochkasanを見たときに生成されるクオリアは、僕が生成した「絶対世界一カッコいい男」のクオリアである可能性もあるのです。
そして、その場合ジェニファーが選ぶいい男ランキングは、
1位 keigochkasan ヽ( ・∀・)ノ
2位 ベッカム
になるのです。ハタ目には順位は入れ替わりましたが、それぞれが「絶対世界一カッコいい男」のクオリアを1位に、「絶対に世界で2番目にカッコいい男」のクオリアを2位にしたことには変わりありません。
このように、物事には絶対的な基準というものがあるが、それはクオリアによって判断され、クオリアの生成法は人や場合により異なるうえ人間には他人のクオリアを知ることが出来ないので、表出する判断は千差万別ということになっているのである。と、いうこともあり得るのではないか?ということです。
子供の頃にこういうことを考えていたのを思い出したので書いてみましたがどうでしょう?論理破綻していないかな?ツッコミ募集中です。
注)クオリアが他人に検証し得ないものである以上、「絶対」という概念を用いること自体が誤りだ。という指摘はありそうですが、これはいわゆる「実証主義」の見地に立つものかと思います。そのツッコミには答えようが無いので、クオリアの存在自体及び人や環境による差異はあるものとして、読んでもらえるとありがたいです。
クオリア自体、また他の前提条件の解釈に間違いがありましたら教えてやってください。よろしくお願いします。m(_ _)m
*クオリアは「人間の認識の最小単位」(例えばリンゴの『色』)のことだそうです。上の「ベッカムというクオリア」の件は、「ベッカムとして認識されるクオリアの集合」と読み替えてください。よろー
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