2006/02/16
【Trash】美の競演のジレンマ
トリノ五輪が開幕し、我らが日本勢はいまだメダルゼロであるが、まぁ俺はプレイヤーでは無いので勝敗についてシビアに考えてはいない。いいパフォーマンスが見られれば良し、勝てばもっと良し、程度のものだ。 もちろん選手はそんなこと言っていられないだろう。それまでの辛く長い数年間と等しい数分、数秒を過ごすのだから。
そこがスポーツの醍醐味でもあるのだが、一発勝負の本番ではしばしば番狂わせが起きる。
オリンピックには魔物が棲むとはよく言われるが、実力者が怪我で欠場したりありえない初歩的なミスをしたり、そういうことが必ず起きる。そんな時、歓喜に沸く「シンデレラ」の背後で呆然と敗因を探す実力者の姿は、時に勝者以上に印象的で美しくさえあるのだが。
彼らが魔物に憑かれたと表現するには必ず必要な前提がある。彼らが確かに負けていることだ。 ヨーイドンでゴールに駆け込むタイプの競技ならそういった問題は起こりづらいが、 あいにく冬季オリンピックには採点競技が多い。
審査による採点はどうしても個人の感覚に頼ることになってしまい、誤審や不正を生み出しやすい。また、採点の基準も均一化することは不可能なので、大抵の競技は数カ国の代表からなる審判団を設け、点数を合計又は平均化することで公平性を保とうとしている。が、これで問題が解決するかというとそんなはずも無く、先のフィギアの審判密約問題などが相も変わらず引き起こされる。
フィギアではそれを受けて採点方法を変更し、一つ一つの技に対して点数が付けられるようになったという。審判の裁量ではなく、この技は何点、と機械的に決められているのだ。
だがこの方式には大きな問題がある。
まず「技」を規定し、それらの完成度・組み合わせで加点していくという方法を取ったため、基本的に「技」以外の要素は審査基準から除外されるのだ。たとえば今回のフィギアで日本の荒川静香選手が得意とするイナ・バウアーという滑り方がある。その名の通りイナ・バウアーという選手が開発した片足を曲げ、もう片方の足を後ろに伸ばし、それぞれの足を180度開いて滑走するものなのだが、これは現在の規定では「技」ではない。彼女のイナ・バウアーは大きく反らした上体といい流れるようなスピードといい、とても優雅で美しいのだが「技」ではないため加点の対象にならない。単なる繋ぎ動作になってしまうのだ。
ソルトレーク大会で男子モーグルのジョニー・モズレーという選手が、現在上村愛子が得意とする「コークスクリュー720」に近い3Dエアを跳んだが、当時の規定ではそもそも3Dエアそのものが禁止されており(足が頭より高くなる状態を取ることが禁止されていた)、当然彼のエアも特別に加点されることもなく確か4位に終わっていた。だが一番注目を浴びたのは彼であったし、その後の縦回転解禁もあのエアの影響を受けていることは間違いない。点数にはならなかったが、文句無しに素晴らしいエアであったのだ。
どうすればこのような問題がなくなるのか?
それはとても難題であり、恐らく答えは出ないであろうが、「美」を「技」に置き換え点数化するという手法は、結局選手に「規定の技の組み合わせ」を強いることになり、そうして出来たツギハギの演技は確かに高得点だろうが「美しい」といえるのか。
技術点に賭け世界2位まで詰めあがった伊藤みどりという選手がいた。彼女はアスリートとしてとても立派だが、もしかしたらフィギアスケートを壊してはいなかっただろうか。 王子に見初められたシンデレラは、服が綺麗だったから化粧が上手かったから美しかったのではないはずだ。
新体操にアンナ・ベッソノワという選手がいる。立っているだけでも美しい選手なのだが、恐らく幼少のころからバレエの練習を積んでいたのだろう、一度動き出すとその動作の一つ一つがため息が出るほど美しい。誰かと比べて美しいのではないのだ。
ただ、彼女は美しいのだ。
芸術に1番、2番はない。
圧倒的であるのか、そうでないのか。そこにあるのはそれだけはないだろうか。
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